ルーツを調べながら各地を旅行するのが好きな与平次の独り言。日々の雑感など。


by uranoke
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

<   2005年 12月 ( 2 )   > この月の画像一覧

小斎の郷土史より

今日は地元の図書館に宮城県角田市図書館から配達を依頼していた本が届いているということで早速取りに行ってきました。全部で3冊です。

1. ふるさと小斎の歴史 上 窪田文夫
2. ふるさと小斎の歴史 下 窪田文夫
3. 伊具郡誌 臨川書店


全て戸村氏関係で取り寄せた図書です。
ホームページで述べていますが、私の祖母は明治42年に小樽で生まれてすぐに、その父を病で失いました。つまり、私の曾祖父にあたる人物です。そして、辛くも曾祖父母の入籍前であったために、祖母は私生児となってしまいました。名前を戸村菊十郎と云ったそうです。

菊十郎翁は書生として東北のある地から小樽へ渡って、下宿先で曾祖母と出会ったそうです。真偽のほどは定かではありませんが、口伝では名家の出ということで、祖母は、言葉を交わしたことのない父を生涯誇りに思っていて、私も幼い頃から何度となく話を聞いたことがあります。そして祖母は、何とか菊十郎翁の生家・戸村家を探し当てて、自分の父の墓前を立てる日をずっと待ち望んでいました。しかし、そんな祖母も2年前に他界してしまい、結局祖母の願いをかなえてあげることはできませんでした。実は私も含めて親族全員が先祖について本格的に調べることをしなかったためでもあります。

今となっては祖母の願いをかなえてあげることはできませんが、趣味の範囲とはいえ、本格的に先祖の調査を始めた身にとっては、何とか今からでも達成したいというところです。

さて、整理してみると、わずかばかりに曾祖父については知らされていることを以下に列挙してみます。

1.名を戸村菊十郎、明治42年9月10日没・深入法教信士。
2.小樽で病死したが、葬儀後、骨壷は戸村家が持ち帰ったと云われ、墓はどこにあるのか不明。
3.口伝では菊十郎は東北地方から小樽に単身で書生として渡っていた。
4.口伝では菊十郎は仙台藩家老職の戸村氏の末裔と云われていた。
5.書生のあと、小樽市役所で勤務していた。
6.その後、小樽のある小学校の校長に就任が決まっていたが、着任前に病死した。

というものです。骨壷を戸村家が持ち帰ったのは、曾祖父母が正式に結婚していなかったためと云われています。ところがその後、私が調査した限り、手がかりとまでは行きませんが妙な事実がわかってきました。

1.仙台藩には家老職は存在しない。同等の職に奉行職というものがある。
2.仙台藩の各資料で藩士級まで広げても、戸村という人物は1人もいない。
3.一方で秋田藩家老に横手城代戸村十太夫をはじめとする戸村一族がいる。
4.しかし、何故か現在の東北地方の戸村氏は、その殆どが仙南地方(角田・丸森)に集中している(一方で秋田の戸村氏は非常に少ない)。

従って、口伝を全て満たす戸村氏は存在しないようです。きっとどこか誤った伝承だったのでしょう。私はまず仙南地方に多く分布する戸村氏の調査に乗り出すべく、仙南の中で最も多いところに焦点を絞ってみました。幸いにも「戸村」という姓は希少名字ですので、そこを調べてみると仙南地方でも特に丸森町の「小斎」というところに最も多いことが分かりました。そこで今回、この「小斎」を中心とする郷土史料を取り寄せたというわけです。

まだしっかり読んでいませんが、パラパラと資料をめくってみて、早速驚きました。この地方を治めていた佐藤家に仕えていた重臣のことを明確に「家老」と書いています。括弧書きで奉行とも書いていますが、地元の方々は家老と呼んでいたようです。やはりじっくり腰を据えて取り組んでいくと何かしら収穫が出てきます。パッと見たところ、郷土史に蔵書として資料を提供している戸村さんもおられるようです。長い調査になると思いますが、じっくり資料と格闘していこうと思います。
[PR]
by uranoke | 2005-12-18 23:55 | 調査日記

恩師山科先生を偲んで

週末は札幌に戻りました。
敬愛する恩師山科俊郎先生(北海道大学名誉教授)のお別れ会に出席してきました。先生は今年7月30日に胃癌により逝去されました。あまりにも突然のことで、その話を聞いたときは信じられませんでした。

先生の研究活動は幅広く、一言で言い表すことはできませんが、環境問題に対応するために車粉塵の調査を行い、当時90%の使用率だったスパイクタイヤを禁止することに貢献されたことが有名です。環境やエネルギー問題など研究活動だけでなく、芸術もたしなまれ、札幌コンサートホール「Kitara」の建設にあたり、アイデアや要望をまとめたSTP(さっぽろシアターパークプロジェクト)の代表幹事として旗を振られていました。この他にも緑地計画や公園設置など、数々の計画に携わっておられ、お別れ会には各界から非常に多くの方々が参加していました。

私は大学で先生とともに過ごしていた日々を思い出します。学問については勿論ですが、人間としての教育をたくさん受けました。私は他の学生より人一倍頑固な性格でしたので、先生の意見を素直に聞けず、何度となく怒られていました。先生から部屋に呼ばれ、いたく説教をされたこともあります。私は目から涙がこぼれてきました。先生の言葉はいつも愛情に満ちていたからです。

私が海外での研究活動を決断したとき、また結婚という人生の節目を迎えるとき、いつも先生は背中を押して、自信を持たせてくれました。今の自分があるのは、先生の暖かいお言葉があってという他にありません。本当にありがとうございます。これからも先生に賜ったお言葉を胸に生きて行きたいです。

以前、ある文献を調べていて、個人的に感銘を受けたものに浄土宗の祖である法然を師とした明遍の言葉があります。
「一向に後世のためと思いて、し候わん学問、いかが候べき、はじめは後世のためと思えども、後にはみな名利になるなり」

本来は純粋にこの世の真理を追求し、後世のためにと始めた学問が、いつしかその心を忘れ、地位や名声を求めて学問を行っているというものです。地位や名声というほど大げさなものではありませんが、明遍の言葉は、卑しくも研究の世界で生きている今の私に当てはまるようで恥ずかしい限りです。人間は一人ではとても弱いので、他人に慕われ、頼られることで自分が生きていることを実感しようとしてしまうのではないでしょうか。私も例外なく、人に尊敬されたいと思ってしまう未熟者です。山科先生のことを思い出し、世のためにという気持ちを忘れないようにしなくてはなりませんね。
[PR]
by uranoke | 2005-12-12 01:33 | 日々の雑感